高等学院開院式における大隈重信総長の式辞

(『早稲田学報』大正九年五月一〇日発行第三百三号より) 

 

 

本日は、高等学院の開院式に際し、斯く多数名士の御臨み下さったことを謝します。もはや時間も大分立った為に、私は同じことを繰返すことを避けて、高等学院の教員諸君及び学生諸君に御参考までに私の意見を述べることとする。是は時節がら決して無用にあらずと信ずるのである。学生諸君の多分は中学校から来たのであろうと思う。多数であるか少数であるか、中学校の四年級から入学した諸君も少なくないと思うのである。

 

抑抑社会は人の成長する如く生長する。国家も亦発達する。殆んど三十七八年前学問の独立を宣言してから、独立の意義も大いに発達しつつある。其の精神と将来世界的に活動せんとする所の吾人との関係とについて述べることは、教鞭を取られる所の教員諸君の御参考になると思う。学問を修むる所の学生諸君に対しても亦最も必要である。

 

 自由独立という語は古くから行われているものではないようであるが、其の精神は昔からある。自由独立という語が流行し始めたのは、僅かに十六七世紀以来のことである。流行ではない。時勢の必要に応じて現われて来たのである。しかるに、自由独立の根本は何処から来たかというと、即ち道徳的に起ったのである。人間に缺く可からざる、自然に備えている所の倫理的意志から生み出されたものである。

 

此の高等学院においては基礎教育を施すのであるが、人間の思想感情又あらゆる人間の行為の基礎となるべきものは何であるかというと、即ち道徳である。之を極く単純に説くときは、人間の良心である。良心から、自由も独立も又犯す可からざる権利をも生れて来るのである。之を約めて見れば、人間の性は善なり、人間には良心ありということになり、之を研くのが即ち修養である修養に由って、人格を鍛え上げるのである。此の人格が集合して国体をなさば是が国家となる。国家共同生活又社会共同生活の根本は之から生れて来るのである。孔子は、これを仁といった。

 

 仁というは、人の為に働く道徳の意である。基督教の説くところもまた、孔子の仁に近い。仁の意義は学者が種々に注釈している。二面から見れば、仁は心の徳、愛の理ともいうべきものである。ある学者は博愛これを仁と言うているが、是は基督の愛の思想にも通じているようであるが、畢竟するに、是は良心である。人の為に働くということである。功利的の道徳は利己的である。己れ利せんとすれば、人をも利せなければならぬ。此の関係からして苦も生ずる、楽も生ずるのである。こういう事情から一つの道徳が組織されたものである。こういう議論もまた一理あるのであるが、これでは一面に過ぎないのであって、全てを得たものとは言われない。人類には缺く可からざる倫理的意識というものが自然に備わっている。人間の進化する所以はこの所にある。自由独立というのは、即ち缺く可からざる道徳の思想というものである。即ち良心を養うということである。これに理智を加える。そこで理智の発達によって、人が聡明になる。物の善悪是非を知るようになる。それから自己の良心によって善をなし悪を去るという実質的の働きが現われてくるのである。

 

この学院の教科目については、教員諸君はそれぞれ考えをもっておられると思うが、ご参考までに愚見を申し述べてみたいと思うのは、第一語学のことである。語学は最も必要である。語学を修めない人は心が偏狭に陥ってしまう。出来得るだけこれを学ぶのは必要である。しかし俗に言う多いもの手に溜らずで、余り多量になると、何も得るところがなくなる。何でも一つを十分に修めるのが宜しい。

 

今日最も多く行われているのが英語だから英語を十分に修めるのが最も宜しかろうと思うのである。しかしながらある科目一殊に科学を学ぶには、英語のみでは不十分である。法律に就いてみても、アングロサクソンの国には法典がない。これに反して、日本には法典があるから、法典をもっている所のドイツとかフランスとか、即ち大陸諸国の国語を学ばなければならぬ。こういうことにもなるから、一つでいけぬなら、二つを勉強したらよろしかろう。

 

諸君は、まだ年が若い。四年級の中学生などは、外国語を覚えるのは速いに相違ない。語学が十分できると、第一自己の知識が進むのみならず、偏狭なる心が少なくなってくる。而して語学は若い時でなくては進まぬ。この頃は、大学から出る学生もその他の高等の学校から出る人も語学の力が余程不足のようである。この語学の欠乏ということは誰も言っている。当局はこの点について骨を折っていられるようであるが、どうも十分でないようである。かく申す私も語学には精通していない。何時も通訳を頼むので甚だ困る。立派な先生がいるから宜しいだろうというかも知らぬが、通訳ではどうも具合が悪い。私は耳は少し聞こえるが、どうも此方の思う所を通ずることが出来ない。通訳は、此方から言ったことを悉く通じない。又向こうから言ったことをもよく通じない。立派な先生であっても、語学が下手だとこうなる。理屈はよく知っている大先生でも、語学が不十分だから、互いに意思を通ずることが出来ない。非常に不自由である。

 

語学のことは姑く置いて、この学院の学科は文科と理科とに大別してあるが、よほど人間の受くべき理想的の教育ならば文科でも理科でも、すべての学生に共通すべきものがなくてはならぬ。すべての学科に共通すべきものがなくてはならぬ。而して道徳の修養は共通的のものである。理工科、政治科、政治経済科、法科、商科、この所にはないが農科、医科、こういうものにも均しく共通のものがある。国民道徳は今日大いに向上した。それと同じく道徳的教育あるいは修養によって人間の心は向上する。長へに上って行く。現在に満足することは出来ない。過去ったことに満足することはできない。

 

人間は将来をもっている。将来の国民教育は将来を理想としなければならぬ。そこに高い理想を喚起する必要がある。即ち私が常に唱える所の高遠の理想である。斯くいうと、俗人は大言を放ち壮語を弄するが如く思うかも知れぬが、この高遠の理想が国家を盛んにするのである。高遠の理想とは何である。基づく所は哲学である。政治も今にそうなるかも知れぬ。即ち哲人となるの政治である。愚人では政治はできない。無学な人では政治はできない。利己的の人では政治はできない。そうすると所謂哲人政治となる。将来は必ずプラトンの言った如く、政治家は宜しく哲学者となるべしということになって、哲人政治が起るのである。

 

私は雑誌大観の来月号に教化的国家という題目で大論文を書かせている。私は元来外国の例を引くことを余り好まぬ。好まぬというよりは寧ろ浅学でよく知らぬのである。知らぬけれども、私は六七年前にドイツから書面を受けた。それに拠ると、ドイツの医学博士を英国の大学に聘して一週間か十日の講義を頼んだが、この人は講義の冒頭に英国の医者は偏狭で人生を知らぬ、これでは到底真の医者にはなれぬ、まず第一に四年の年限中最初の一年間は哲学を学べ。こういうことを英人に向って説破したのである。傲慢なる英人もこれにはすこしく閉口したろうと思う。しかし私はこれを見て大いに敬服した。まったくこれは真理である。いかなる職掌をもっているものでも国民として国家に対する所の共同の務というものは同一である。政治家であれ、商人であれ、農民であれ、決して区別はない。

 

人類は地上に群れをなして共同しているものである。これが共同して国家ができて、人はそれの為に働く。これが所謂仁者の道であって、支那の所謂王道は源をここに発する。とにかく国民が共同して、公共の為に力を尽くすという精神が全体の人類に普及したならば、今日の困難なる社会問題も労働問題も?然として氷解するのである。こういうことをようやく高等学院へ入ったばかりの青年に言っても、或いは消化しきらぬかも知らぬが、これからはその方面の修養を積んでいかなければならぬ。第一独立した人を作る。模範的の人格を造る。実はこれほど大胆な事業はない。英人何者ぞ、アメリカ人何者ぞ、模範を欧米に示す。この気象がなくてはならぬ。しかしこれはあとのこととして、今後は日本国民として世界的に働かなければならぬ。それには何としても高尚なる思想を作って、上に登ることを努めなければならない。

 

人間は登ることを好むものである。諸君は山を見たら直に登るに相違ない。登ることを好むが、下ることは嫌いである。暗い所から明るい所へ行こうとする。これが即ち文明である。而してその基礎は人間の道徳にある。道徳は修養にある。少しく傲慢な言い方のようであるが、この老人から観ると、此の所に御出での先生方も私の子と同じである。どうかすると孫ぐらいの人もある。世人に対して、傲語の罪を免されたいが、考えて御覧になったら私の言ったことはすこぶる御参考になろうと思う。

 

今日かくの如き学校の成り立ったのは社会の力である。殊に社会の標準となる優れた人々の賜物である。厚くこれを感謝致します。学生諸君は私の言ったことを時々思い起すようにありたい。来月の雑誌を取って見てもらいたい。もっとも値が高いから、合同して購読してもよろしい。そうしてよくこれを記憶せんといかぬ。記憶力というものは、人間に最も大切なものである。すべての思考力も観察力も記憶に始まる。今日は諸君の如き非常に将来に希望を抱いた青年に触れて頗る愉快に感じるのである。当年は平和の第一年である。将来における諸君の活動は帝国の為にも世界の為にも大なる貢献を為すに相違ない。ここに諸君の前途を祝福します。